先の能登半島地震では242人もの尊い命が失われました。
この原因は主に家屋の耐震設計の甘さと道路・水道等の生活インフラの地震に対する脆弱性にあります。
この二つの面での対応は、どこまでできていれば大丈夫で、そうでなければ危険であるという境界線はありませんが、今回の被害と対応を見る限り非常にお粗末であると強く感じています。
そのお粗末な部分はたくさんありますが、本稿では私が実際に中国海南島で見た第二次世界大戦中の日本軍による航空基地を参考に話を進めます。
まず今回の地震では明らかに初動が遅れましたが、特に発生後三日間は人命に大きくかかわる時間での対処の遅れです。
今回の地震ではこの期間中政府や自治体はやってる感のうわべ上の見せかけだけでほとんど何もできませんでした。
図1.能登半島地震直後の通行止めの状態
最も大きな原因は図1に示しますように能登半島全域の道路が寸断され、最も被害の大きかった半島北部に全く支援の手が及ばなかったことです。
もっとも、全ての道路が使えなくなったこと自体は問題ですが、百歩譲ったとしても空路の代替手段が使えなかったことは更に問題です。
図2.能登空港の衛星画像
空路と言えば、図2に示しますように能登半島では能登空港のみで、その空港も3日間使えませんでした。また、ドローンも準備できていませんでした。
つまり能登半島は3日間、陸も空も機能不全でした。
図3.海南島三亜の日本軍指揮部
図4.内部の電気配線跡
図5.軍機滑走路跡
私は以前中国で働いていた関係で、中国最南端の海南島に何度か行ったことがあります。
ある時、私の部下が三亜市外の、戦後日本人がおそらく足を踏み込んでいないであろう場所に案内してくれました。
図3、4、5がそのときスマホで撮った写真です。
図3は第二次世界大戦中の日本軍の海南島指揮部で、広大な畑の中に建物と言えばこの建物のみ建っていました。
図4はその建物の内部の状況です。最初は中国人独特のでっち上げだろうと思っていましたが、壁の赤丸の部分を見て、絶対に日本軍だと確信しました。通常中国の古い建物の電気配線は壁の表面にはわせていますが、その壁を見ると、壁に溝を設けて電線をはわせた形跡が残っていました。間違いなく日本人らしい特徴です。戦時中でもまじめに任務をこなしていたんだなあ、と目頭が熱くなるほどの思いでした。
少し話が横道に逸れましたが、図5は指揮部から数百メートルの距離にある飛行機の滑走路です。
今でも十分に使える滑走路が残されていました。
中国人にとって、いい思い出のものではないので、普通なら本来の畑の状態に戻してしまうのですが、残しているということは有事の際に使うつもりであろうと思いました。
実は中国の地方に行きますと、時々幅が50mから100mの道路がありますが有事の際のために設けたものです。
このように戦時中には日本軍は建物にせよ、航空滑走路等のインフラにせよ、同志を互いに守るために事前に頭を使って準備していました。
まとめ
ところが最近の政府はどうでしょうか。
これだけ大地震が頻繁に発生しているのに地震対策と言えばいつも出たとこ勝負です。
地震が発生すれば、首相自ら防災服を着てやったふりを演出しているだけです。
肝心なことは、海南島の日本軍がやったように事前に具体的な形で有事に備えることです。
飛行機が離発着できる滑走路ぐらいは、能登半島であれば数か所設けておくべきですし、小口輸送用のドローンも最低でも数十機は準備しておくべきです。
最近の日本は、政府のみに限らず、日本人全体が自律的に行動しなくなっています。国民全体にそういう雰囲気が漂っています。
私は日本が以前の日本を取り戻すためには地方の活性化、自律化が不可欠であると考え、その方向で具体的に動きつつあります。
そのためにも、災害等の有事に強い地方に立て直すことは我々の最大の課題です。
能登半島は復旧のことしか考えていませんが、知事さんも、そして何よりも被害にあわれた地元の人々も、ぜひ復興を視野に自身の頭で考えてほしいと思います。
皆さん、「地方開拓」の精神で頑張りましょう!